Smeh liya Morocco - スマヒリヤ・モロッコ

モロッコ駐在生活のことを中心に、色んなことを書いてます。

耐久レース

できれば人生の中で、不快な感情は抱きたくないものだ。

けれどやはりそれは避けられず、面と向かって乗り越えなければいけなかったり、しばらく落ち込んで動けないのを時間に任せて少しずつ前を向いていったり、コツコツと足に豆を作ってでも険しい山を登っていかなければいけなかったりする。先輩たちがいうには「それが人生」だからなんだそうだ。

よくカメルーンで働いていた同じ職場の先生たちが(みんなとーちゃんぐらいの年齢かな)、C'EST LA VIE, MA SOEUR (それが人生だぜ、小娘よ。)と言い放ってきたことを覚えている。悔しい時、辛い時、悲しい時、なぜこうも彼らは大らかなのかと驚き、嫉妬した。世界に愛されていて、世界に馴染んでいて、生も死も怖くないような全部知ったような顔をしている彼らがなんだか羨ましくなったのかもしれない。


遠距離が辛いだとか、勉強が難しいだとか、日本(食)が恋しいだとか、そういう悩みはこれまで特に問題にはならなかった。
なぜなら自ら選び取り、自らが目的を持ってその道に進んだからだ。後悔もなかった。

世界のどうしようもない理不尽について意見するのとか、苦手な論理的文章を書くのとかを繰り返して、そういうしんどいことには慣れてきたつもりだったのだけど、やっぱりどうしてもこの世界において無条件に嫌いなことが二つある。

テストと、数学。

テスト、というのは義務教育で受けさせられようなあの暗記タイプの点数をつけられて順位まで出されるあのテストである。
競争とかあからさまに人と比べることが嫌いで、そもそも高校の勉強が本当に苦手で、テスト期間は吐く思いで徹夜をした。でも点数は平均以下なのである。今思えば間違ったところをなぜ間違えたのかとかもっと勉強すべきだったと思うけど、そういう気にも慣れないくらい嫌いだった。思い出しただけでもゾッとする。

数学は、あの義務教育の数学。
私が本当に数学のセンスがなかったのかは、今となってはわからない。なぜなら「数学のセンスないね」と言ってきたのは先生だったから。
先生に言われたらそりゃピュアで世間知らずな高校生は「あ、数学のセンスないんだ」って思っちゃいます。授業寝ちゃいます。テスト勉強やる気出ません。そこから滑り落ちるように数学の成績は落ち、テキストはゴミとなり、理系に進むという選択肢は摘み取られ、なんとなく文系に進んだゆとり世代のゆとり人間なのであります。


今思えば、
おそらく私が数学が嫌いなのは、「数学」そのものが嫌いなのではなく(そもそも数学を理解できぬまま高校卒業した)、数学に関わる過去(先生に言われたことや勉強しても伸びなかった成績)が嫌いなんだと思うな。あれから自分のことさらに自分で卑下して過小評価してマイナス思考に陥ったしね。文系だって大事なんだよ。先生にダメと言われたって、それは何の根拠もない。何も見ちゃいない。今ではそう言えるのにな。


そんな苦手なお二方に、社会に出てからもう出会うことはないだろうと思っていたのだが、
アテネオ大学にて両方とも出会いました。本当に逃げ出したい気分。

テストはまさに今直面している。このプログラムを卒業できるか否かがかかっている重要なテスト。
本当は昨日全部終わってたはずなのに、ずるずるずるずると延期され、未だはっきりした日程が決まっていないという先代未聞のテスト期間。準備始めてはや二週間ですぞ。

大体テスト期間て決まっているでしょ?それに向かって学生は「終わりを期待して」頑張るわけなのに終わりがないテスト勉強なんて拷問でしかないの。ほんと時間が永遠に感じるし、気持ちよく他のことができない。

数学はアテネオ大学の入学登録後に受けさせられた試験に出てきました。基礎知識を測るための試験だったので合否はなかったんですが、辛い試験でした。
「因数分解しなさい。」という問題を久しぶりに(英文で)見て、複雑な気持ちに。懐かしいけど、苦い思い出が蘇る・・・。
そしてやり方なんてすっかり忘れてほとんど解けず。(因数分解以外の問題は図形で、何を問うているかさえもよくわからぬままスルー)
試験の後は、エッセー3000字書いたあと以上の頭痛で、確かめっちゃ寝た。

数学はともかく、現在進行形の死のテスト期間は精神を強くするための訓練なのかな?と思うほど毎日辛い。

友達とちょっとご飯行ったり、ちょっと違うことしてても脳裏に「テスト」。ああ、テスト、どこまで行ってもテスト!!!!
しっかり準備してやることはやった!と言いたいけど、時間があるとやっぱり心配になっちゃって、家に篭る時間が増える。

この耐久レースがコスタリカで一番精神的にきてるかもしれない。
そんなわけで、それを文字に起こして何になるんかわからんけども、

カメルーンのおっちゃんたちがC'EST LA VIE, MA SOEUR (それが人生だぜ、小娘よ。)と言ってくると思うので、
精神統一でもして悟り開こうと思います。

ほんと、テスト早よ終わって!

ないものねだり

すっかり一ヶ月ものを書かずに過ごした。
抜け殻のような7月だった。

卒業式が終わり、ペルーの大冒険が終わり、続々と友達がコスタリカを去っていく。
オンラインでフィリピンの授業を受けて課題に追われながらも、寂しいだの帰りたいだのという気持ちでいっぱいになった。

相変わらず早朝にハチドリが透き通る声で鳴いている。
午後になると雨が降ったり、時々晴れてハッとするような綺麗な夕日が見えることもある。
そういう時、ふと思い立って画用紙ともらった絵の具で絵を描いた。

ギターがあれば歌いたかったんだけど、持っていない。
手持ち無沙汰で、勉強に疲れた時に指に絵の具をつけて白い画用紙の上に色を乗せた。

ちょうどNASAが新たな銀河を発見した写真をニュースで流したときに、私は花火を描こうとして失敗し、宇宙のような絵が出来上がった。
プールに行った日に晴れた空が水面に滲んで揺れているのを描きたくて、青をたくさん乗せた絵を描いた。
色々とストーリがある絵が、出来上がっては増えていった。

ちょっと気を抜くと考えすぎるこの癖。

何もしない時間が、価値のない時間だと考えがちだったけれど、
なんとなく目を閉じて、「無」になってみるって、やってみると案外とても難しいことだった。

マルチタスクが当たり前になり、常にあれこれ考えながら日々を過ごしている。
本当に毎日を大切にできているかと、誰にも問われることはないので気づけなかったけど、
その日の命をなんとなく明日や数ヶ月後のために使っているような気がする。


日本で安倍元総理が撃たれた時、コスタリカは夜の23時ごろだった。
フィリピンの授業が終わって、そろそろ寝ようかなと思った頃にそのニュースを見た。

速報で、同じことをおうむ返ししているライブ動画に、新たなニュースが入ってくるのをじっとまった。
深夜の2時か3時くらいに、安倍さんの死亡が確認された。ズキズキと胸が痛くて、恐ろしい気持ちになった。

その日はなんだか眠れなくて、ベットの中でやっぱりあれこれ考えていた。
日本はどうなっているんだ。この世界はどうなっているんだ。

そういうようなことを考えていたんだと思うが、答えはない。誰も答えてくれない。
そんな錯綜する思考の中で、睡眠の質は落ち、やっぱり翌日も眠かった。

そうして、寝不足が続いた時にやっと、
時々考えるスイッチをオフにしなければならないんだと気づいた。

人間はないものねだりだ
手に入れると当たり前。なければ不平をいう。

そして失うとそれが特別だったことに気づく。

戦争で人が殺されている。
温暖化のせいで山火事があって、家が燃えて人が泣いている。
ジャーナリストが紛争地で拘束される。
感染症はどこまでも続いている。

そういう混沌の中で、近所の森を歩きながら「考えすぎだなあ」などと呟ける余裕があるなんて、
本当に悲しいほど幸運で、皮肉なほど有り難い事実である。


どうしても、私は銃を向けられる筋合いはないし、向けられることはないという確信から逃れられない。
なぜだろう。でもきっとみんなそうなんじゃないかな。

安倍さんのあのニュースを見るまでは、彼が本物の銃で心臓を狙われたことや、あの最初の2発が銃声だったことなんて誰も想像しなかったんじゃないか。

あまりにも、あまりにも、信じられないと思うのは、どこかでそんな残酷で醜いものを「空想」だと無視していたからなのではないか。



・・・おっと、また考えすぎているな。

Do you feel peace in chaos?

と友達が電話で尋ねてきた。

Yes.
と私は答える。カオスだが、ピースフルなのだ。

世界はすぐそこにあって、殺し合いとか恨み憎しみとか落胆とか悲壮に溢れるその崖っぷちにいるような気配はある。
それでも、私の周りは奇跡的に平和なのだ。雨が綺麗で、鳥の声がして、湿った緑の匂いがするんだ。

皮肉だと笑ってくれていい。

でも私はそれに感謝をして、明日も散歩をしながら「考えすぎないようにする」ために頭を悩ませるのだろう。

だから、目を閉じて、呼吸をする。
頭の中に白いキャンバスを思い浮かべ、違うものが浮かんだらまた真っ白に塗るのだ。
それを20分やるだけでも、心の波がちょっと静まる。

抜け殻の気分になる7月は、そんなふうに乗り越えた。

数ヶ月後に迫る卒業と、白紙状態の今後のプラン。
そういうことに不安を抱けるのも、幸せなことなんだろうね。

ペルー旅行記

それはもう突き抜けるほどの青空。その青空を覆い隠すほど高い、ゴツゴツとした岩山が広がる。
標高4800mあたりを走るバスの中で、延々と続くその壮大すぎる光景と、身体中の筋肉がぴんと伸ばされるような寒さに、ただ言葉を失った。

高校生の時だったか、地理の資料集に載っていたマチュピチュ遺跡の写真を見て、ペルーに憧れたのを覚えている。
その時から、ペルーという南米の国に行くことが夢であり、憧れであり、JICA海外協力隊でも第一希望の国であった。(JICAではカメルーンに赴任することになったのだけど)

協力隊でフランス語を勉強してから、もっぱらアフリカ仏語圏でのキャリアを考え始めて、もうスペイン語圏である中南米にはご縁がないかなあと思っていた。しかし、一年前にAPS(Asian Peacebuilders Scholarship)プログラムに合格し、初めて中米のコスタリカで暮らすことになった。

そんなご縁に恵まれたこともあり、

国連平和大学院を晴れて卒業し、フィリピンのアテネオ大学院の授業が始まるまでの一週間の休暇に、ペルーに行くことに決めたのである。

Machu Picchu

憧れのマチュピチュはとても遠い場所にあった。
コスタリカの首都サンホセから、ペルーの首都リマまでフライトで3時間半。そこからさらにリマからクスコという街に飛ぶ。この時に標高が3000mくらい上がるので高山病にかかるひとが多いという(私は大丈夫でした)。

クスコは朝晩は1℃まで冷え込み(6月の場合)家の中も暖房などがないので、靴下やジャケットを着込んで寝なければ凍えた。澄んだ空気の中に浮かぶ朝焼けと、毎日のように続く晴れた天気に元気付けられる日々だった。

クスコから電車で4時間ほどのところに、Aguas Calientesという小さな街があり、そこがMachu Picchu Puebloというマチュピチュ遺跡への入り口となる場所になる。山脈に囲まれた小さな丘の街で、細道にたくさんのレストランや土産屋の並ぶ観光地だ。

そこに一泊し、翌日の早朝から遺跡行きのバスに乗る。崖っぷちの山をずんずん登って30分ほどで入り口に着き、事前に予約しておいたチケットを見せる。まだ朝の6時なのにたくさんの観光客が押し寄せていた。

夢が現実になる時、あまり実感を持てないままその瞬間を迎えることが多い。

自分の想像していたほど喜びを表現できなかったり、うまく現実に心がついていかないからなのかも知れない。

とにかくマチュピチュが目の前に広がっているのに、7時ごろに朝日が昇るまで、その感動を肌で感じられなかった。

謎の時差でやってきた感動と共に、古代の文明が創り上げたその石の遺跡の隅々を舐めるように見渡し、歩きまくる。陽が登り、影が刺す。

丘の上からマチュピチュを見渡すと、そのスケールがさらに現実味を帯びた。興奮しているのか、標高が高くて心拍数が上がっているのか分からないが、とにかくドキドキしていた。

Montaña de Siete Colores

朝4時に起床し、古びたバスに乗り込んだ。車窓から凍えながら朝日を見たり、タイヤのゴム全体がえぐれるようなパンクに遭遇したり、色んなことがあった長い道中だった。

標高5000m越えの山を歩いたのは、人生で初めてだった。そんな高い山日本にはない。

少し坂を登るだけで息が切れ、乾燥した空気と冷たい風に肌が切り裂かれるようだった。
息切れの旅に身をかがめて立ち止まると、身体中が酸素を必死に欲してか、血液がどくどくと巡っているのを感じた。周りの観光客がSi, puedes!(You can do it!)と言いながら私が登るのを応援してくれる。

鼻を真っ赤にして、砂だらけになって、なんとかしてたどり着いた頂上に広がる光景は、筆舌し難い美しさだった。ただ、氷点下の中に広がるパノラマに立ち、来てよかった、そんなふうに思った。

Laguna Humantay

一つ目の山歩きに続き、午前3:30起床、クスコからツアーバスで3時間半のハイキングスポットに行く。

岩山に見たことのない植物が茂っている。どれも身長の低い草で、岩肌がはっきりと見える。遠くの山には雪が積もっており、澄んだ空気の中で神秘的な光を放っていた。

川のせせらぎの中、おそらく4500mほどの標高の中を登っていく。昨日の5000mほどの息切れはなかったが、やはり少しの坂を登るだけでバテてしまう。何度も水を飲み、休憩し、2時間ほどのハイキングを終えた先に、これもまた驚きの光景が広がっていた。

Laguna Humantay (ウマンタイ湖)はアンデス山脈の中に位置していて、5473mあるウマンタイ山の雪解け水でできたコバルトブルーの湖だった。現地の人々は神聖な場所としてここを大切に守っているという。湖に足を入れたり泳いだりすることは禁止されていた。


Comida Peruana-ペルー料理 

早起き、ハードな山歩き、極寒、そんな過酷な旅を支えてくれたのは、ペルーの美味しいご飯だった。

新鮮な野菜と魚介、香高い肉料理・・・。
ローカルレストランではスープとメインディッシュを合わせて3ドル程度だったので、
貧乏学生旅行にもかかわらず美味しい料理を毎日お腹いっぱい食べる事ができた。

クスコとリマで伝統料理も異なっているので(クスコはアルパカなどの肉料理、リマはセビーチェなどの魚介料理)、色々と試す事ができて本当に楽しかった。食べるのは旅の醍醐味。。。

Lomo Salutado (牛肉と野菜の炒め物)
首都リマで食べた魚介スープ。四人前ぐらいの大きさだった。

ペルーに行けたこと自体とても特別な経験だったけど、それ以上に一緒に旅した友達(もはや山登りチームと呼びたいくらい)との時間が有り難かった。

一人ではきっとできなかったことが、沢山できた旅だったな。
ほんとありがとう。

ペルー、また来ます。

卒業

混ざり合う鳥の声、風の音、紫色の花、ハチドリ、青空、雲、雨と霧、燃えるような夕日。

コスタリカの小さな街にある、山上のキャンパスで、未熟ながらも思考しつづけ、発見し、学び、出逢い、別れた。
涙し、笑い、時に怒り、苦しむこともあった。

全ての感情が溢れるままに、私は絵を描き、歌を歌い、文章を書いてきた。

自由に「私」を表現できることを許してくれるこの環境が、特別であることを噛み締める。

ここにいる人々もまた、選択肢に恵まれながらも自己表現やらさらなる自由に焦がれながら思考して学ぶ人たちだったのかもしれない。

全員が知り合いとは言えなくても、今年ここにたまたま集まった人間同士が創った雰囲気の中に、私は確かに居た。

時に流れるように、時に澱みながら、不安とか希望をそれなりに抱えて生きた。

そういう過程自体が、意味深いもののような気がするし、自分のこれからに何かしら影響していくのではないかと思う。

ジェンダーの多様性や文化の違い。一言で片付けられそうなそんなことばひとつひとつに、果てしない意味が込められていて、どうにも手のつけようがない。

無意識の中に秘めていた謎とかが、何気ない会話の中で呆気なく解けてしまったりする。その割に、わかっていたつもりのことが分からなくなったりもする。

何もかも答えは出ないままだ。

時間がゆったりと流れる。太陽が昇る、沈む。雲が広がり、雨が降る。蝉が鳴き、雨が止み、闇の中に月が浮かぶ。

日本じゃ「愛してる」の一言もなかなか言えないけれど、ここでは抱擁の挨拶が当たり前になって、loveみたいなあったかい感情がとても身近で、不思議なくらい優しい気持ちになることができた。

同時に、真っ黒い感情で怒りに任せてどうしようもない時もあった。人種差別や、世界の不平等。ただ無力を実感し、指を咥えてその事実を眺めている自分を嫌悪した。

明日よりも今日を、過去よりもその瞬間を大切にしろと言われているようだった。感じて、感じたままを表現しろと、身体が云うのだ。泳ぎ、歩き、景色を脳裏に焼き付ける。

そんな全力の「今」を生き、知らぬ間に国連平和大学の全過程が終了したことに戸惑い驚きながら、帰国していく学生と涙の別れをする暇もなく、私は旅をしたり、大切な人達のことを想っている。

そしてまた、絵を描き、歌を歌い、文章を書く。

コスタリカでの1年弱、私は変わったのだろうか。

どれだけ変わったとしても私は私なんだろう。ただ、表現方法が変わり、心の持ち方が変わり、私自身は色を変えながら生きていく。

時に信念のようなものを語りながらも、不安で割れそうな心をどうにかして維持しなければならない時もある。

それはもう不安定で、予測不可能だ。

そしてこの哀しくも美しい世界の中で、どろどろしたものから息を呑むほどの絶景まで、好奇心が赴くままに全力で臨む。これからも。

これが「私」なんだなあ。

でも、それでいいじゃないか。

コスタリカの自然の中で、そういう複雑でエゴな自分を許すことができた。

偽ることなく、真っ直ぐに、生きていくことが、これからも叶うだろうか。

こんなふうに自己意識について伸び伸びと書けるのは、やっぱり一緒に旅や勉強をした仲間が同じように思考する人々だったからだと思う。

そしてこれからもそれぞれの方法で「自分」を表現し、その才能をフルに活かして世界で活躍するであろう人々が、友達として存在するからだと思う。

ああ、卒業したんだな。
卒業式から一週間経ってやっと、私はその事実を消化できたらしい。

コスタリカでの出逢いに感謝。

そして、このブログをいつも読んでくれているあなたへ、文章を書けるのは、読んでくださるあなたのおかげです。

心からのありがとうを送ります。

アートがあるし。

人生の多くの出来事は、

ロマンもクソもないありきたりな繰り返しなのかもしれない。

そういう、同じような日常に異なった景色を見出すことは、
アートが得意とすることなのかもしれないと思って絵を描いた。

それはもう欲の溢れた絵。

旅に出たい、世界で美しいものを見出したい、混沌の中で凛と生きていたい。

雨期の続く毎日に、青空が刺した時。
突き刺さるような雨が街灯に反射して霧に果てていく時。

ずっと水中に潜っているような感覚だった。
私はどこまでいくのだろう。どこまで道に迷い続けていいのだろう。

触れられるもの、目の前に存在するもの

それだけしか、私は信じる事ができないのかもしれない。

誰も導く人などいない中、平和を見出せるのは心のうちの静けさだけ。

まあそれでも、
私らしく生きている。

それを愛でられる毎日を、ただ抱きしめる。

溢れれば絵を描こう。曲を奏でよう。文章を書こう。
その整理できない気持ちを、誰にでもなくただ空気の中に吐き出す。

これでいいと言い聞かせながら。

激動に見えるものは、静寂で、
沈黙こそが混沌なのかもしれない。

ありきたりを「つまらない」という前に、立ち止まる。
その日々は、いつか終わってしまうから。寂しさに飲まれてしまうその心が怖くて強がる自分がいる。

コスタリカの国連平和大学の授業はあと二週間で終了する。

泣いても笑っても卒業して、その後はそれぞれの人生。
たまたまここに集まって、たまたま出会った人たち。不思議なご縁だなあ。

「平和」という言葉の意味を、これほど考えに考え尽くした事があっただろうか。
結局答えの出ない問題ばかりだった。ただ現状を知ること、ただ思考を続けること、そんなトレーニングを続けてきたような1年弱だった。

一つ一つの言動が差別や排斥を生み出す可能性が恐ろしさと同時に、
優しさや温もりに溢れる言葉を紡ぐこともできるということを学んだ。

人種差別や環境破壊について肌で感じて、怒りや悲しみで震えた。

悔しくて辛いと思った。どうしようもない世界の歪みに対して、自分は無力だ。

目まぐるしい変化の中でこれまで「正しい」と思ってきたものが崩れ去り、新しい価値観を抱き始めている自分がいる。

ゼロから何かを創り出すことの不安と、新しい冒険への好奇心とが混ざり合っている。

自信は、ない。これからどうなるのかという不安を並べればキリがないくらい。

でも、一緒に歌える人がいて、アートを愛でる人がいて、コスタリカの緑と雨を五感で抱きしめながらそれを共有できる仲間に囲まれていて。
これ以上いい学びの環境があるだろうか。

アートに正解はなくて、上下もなくて、何がアートかという定義もよくわからん。
だからこそそこに浮かんでいる事が心地いい。誰も何も咎めないから。

競争し続けなければならない世界で、そういう場所に居たいときだってあるでしょ。

気楽にやる。

ずっと私が苦手としていた心の持ち方。

どこかしら力が入りすぎていて、うまくリラックスできない事がある。
起きてもいない先のことを心配して、現状に柔軟になれない事がある。

糸が絡まってがんじがらめになっているのを、
丁寧に解くための作業が必要だったりする。
互いの話をするのは、素敵な事だと思う最近。
一緒に歌を歌える人がいることが、とても嬉しく思う最近。

人との距離がとても遠くなったパンデミックの中で、
こうして大学院のキャンパスの中庭で、木々の揺れるのを見ながら友達と語り合えること。

これからのことを、自由に「選択」ができるということ。

そういう何気なくすぎていく日々と、決して平等ではない世界で自由が感じられるこの瞬間が、
がかけがえのないひと時であることを、もう一度改めて噛み締めてみる。

距離が狂わせたものと、与えてくれたもの。

「久々に笑顔を見た。」

彼はそう言って、パソコン越しに少し嬉しそうだった。
なんだかやっと、長い長いすれ違いを終えて、心を通わせることができたなあと思う瞬間だった。

youtu.be

歪んだコミュニケーション

年末に突然決まったヨーロッパ旅行からはや数ヶ月が経った。
私はコスタリカ、彼はハンガリーで学生をしている。

(ヨーロッパ旅行についてはこちら)
pyomn310.hatenablog.com

将来のこと、それぞれの夢のこと、それぞれの目下の生活のことをどの様にして「二人の」ベストな形にするかどうかを延々と議論し続け、思考し続け、悩んできた。結論は出ないまま、現状の不満でいっぱいになった空気に、二人とも押しつぶされそうだった。

コスタリカでの彼の入国拒否と強制送還、そしてヨーロッパの旅行での険悪なムードによって、ずりずりと重い気持ちを引きずったままここまできてしまったせいで、あまり連絡も取らず、近況を話し合うことがないまま時間が経った。

もうこのままおしまいかなあ。
なんて思うこと何度となくもあった。

でも、終わらせたくないと思う自分がいた。

悶々と悩んでいるそんな時にふと、大学へ行くバスの席で隣になった友達に、「遠距離ってむずかしいなあ」なんて言ってびっくりさせたのだけど、彼女はとても的確なアドバイスをくれた。

  • 自分にとってパートナーがどんなポジションにいるのか考えるべきこと。
  • 自分と相手にとって一緒になる時期はいつなのかをしっかり話し合うこと。
  • 過去のことを持ち出して言い合いをするのではなく、これからどうして行きたいのかを話すこと。

物語を語るように、ゆっくりと、順をおって、優しく言葉をくれた。
大学までの20分の道のりが、驚くほど自分の心の曇りを取り除いて、クリアにしてくれた。
ほんとありがとう。

拭えない不平等

アフリカ人である彼が安定した職に就き、日本人の感覚で旅行したり、不自由ない生活を送るためには、かなりの忍耐力と時間が必要になる。
もし彼が日本に来ることを選択していれば、日本語を学ぶことは必須だっただろう。日本語ができても、日本人と同じくらいの収入の職につくには何年もかかるかもしれない。

彼の場合はヨーロッパへの移住を決意したが、フランス語を話す彼にとって第一希望だったフランスの大学には入学を認められず、ハンガリーの大学に通うことになった。その理由は主に彼の「国籍」と住んでいる国のせいだった。

貧困や汚職によって可能性を摘まれた若者たちが、アフリカからヨーロッパ各国に違法入国してくるせいで、どんどんビザの規制が厳しくなり、「国籍」がその人のステータスを決めつけてしまうのだ。
彼がコスタリカの入国を拒否されたのも、そういったパスポートが意味する彼の社会的「ステータス」のせいだと言えるだろう。

彼が私をパートナーとして選んだことで、生活していく土地をどこにするかが問われた。
私がカメルーン人だったら?彼が日本人だったら?そういうことが嫌でも頭によぎる。

先進国と途上国の差。国籍の違いによる社会の扱いの差。そういうものを嫌でも感じ続けなければならないのだった。

いまだに彼が私のことを「恵まれた」「不自由ない環境で育った」「先進国の」人間だという想いを拭えないでいるように、
私自身も彼に対して無意識的にそのような壁を作り上げているのかもしれないと思うと、途方に暮れるのだった。

抱きしめることもできない

文化も育った環境も違う私たちが一緒にいれた理由は、一緒に暮らして時間を共有したひとときだと思う。
あの時に私たちは何もかも理解して分かり合った気になっていたんだ。

カメルーンで暮らしたあの一年間に、生活感やお互いの考え方をじっくり観察し合うことができた。
喧嘩しても、言葉に誤解があっても、近くにいて、その場で触れることができて、温もりがあった。

でもそのあとパンデミックが来て二年間会うことができなかったせいで(しかもお互いハンガリーとコスタリカに移住して)、考え方や生き方にちょっとした変化が訪れたことに気付かぬままそれぞれの環境で過ごしてきた。

勘違いにも気付かず、お互いに無数の誤解を抱きながら、ここまできてしまった。

それを解きほぐす作業を、つい最近した。テレビ電話をしながら、これまでの話をした。
「あの時ああ言ってたけど、どういう意味だったの?」「あの言葉から、自分はこう思っていたけど、実際にはどういう気持ちで言ったの?」

そういうことをしなければ、距離はどんどんお互いの気持ちにズレを作ってしまうから。

たくさんの誤解が、別れる理由にならずに済んで本当によかった。


もう一度一緒に創る

日本に拠点を持たず、根無草で生き続けようとする私には、
パートナーとどこで暮らすかということを考えることがうまくできなかった。

でも彼がヨーロッパでキャリアを積んで行きたいという決意をしてくれたおかげで、
私の曖昧な道筋に光を照らしてくれた。

パートナーとは、「一緒にいて楽しいという人」とは違う。

互いの嫌な部分にも向かい合って、それでもそれを受け入れることができて、互いの苦しみも喜びも共有しながら、互いの不完全さを大切にしながら、未来を一緒に創っていく人のことだと思う。お互いのために努力し続けなければならないし、時に自分の価値観を疑う必要もある。
(重いと感じたらごめんなさい・・・でも遠距離2年した自分にとって全部大切なことです)

人生の先輩は、言ってくれた。

「もし、今の関係にモヤモヤしているなら、多分、これから一緒に創り上げていけるものを探すのがいいと思うよ」

お互いの人生、夢、目標がある中で、自分自身のことばかりを考えていては、遠距離は成り立たない。
話し合って、「二人の目標」を建てた上で、それぞれの人生を交差させるタイミングを見つける必要があるのだ。

そんなことを思考しながら、ふと気づいた。

この憎い距離は、わたしたちの穏便な関係を奪ったけれど、
それと同時にこの腐れ縁とも言えよう長い長い付き合いによる絆をより強固にしてくれたのではないかと。

だから私はこの遠恋を、あくまで今は、祝福したい気分なのだ。

youtu.be

この日常が当たり前なわけがない。

もしも英語が使えたら、
きっと大人になった私はキャリアウーマンになって、
世界中の人と友達になって、
地球を飛び回りながら楽しく仕事をしていた。
大学時代までの私はそんな夢を見ていた。
ーーそして今の私も、そんな未来の私を想い描いている。

#もしも英語が使えたら

#もしも英語が使えたら
by クリムゾンインタラクティブ・ジャパン

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劣等感

大学時代私は、英米語学科としてとにかく英会話を勉強しながら教職免許を取るための講義を受けていた。特段夢もなく、ネイティブの話す英語を聞き流して愛想笑いをして、バイト代を海外旅行につぎ込んではバックパックをするという学生生活を送っていた。

4年間勉強しても英語力が伸びた感覚はなく、むしろ話せないことによる劣等感がずっとこびりついて離れなかった。

大学卒業後に、青年海外協力隊(現在のJICA海外協力隊)としてアフリカのカメルーンで働くことになり、英語の勉強に悩んでいたのにフランス語の勉強をすることになった。2年間カメルーンという未知の世界で暮らした経験は、大学で過ごした数年間以上に刺激的で充実していて、脳内の言語回路を発達させるには十分だったらしい。

その後引き続き民間で日本語とフランス語を使った仕事をしたけれど、英語を使う必要が出てきたのは去年から。
退職し、大学院に進むことを決めた私は今、コスタリカ(これまた英語圏ではなくスペイン語圏なんだけど)に暮らしながら、世界中の学生と頭を突き合わせながら英語で環境や開発学についてひたすら議論する日々を送っている。

言語はツールだ。必要なのは専門性とコミュ力。

誰かがどこかでそんなことを言っていた。翻訳機でも海外の人々と話ができる今、言語を学ぶ必要性はあるのかと疑問視する人もいる。
けれど私は海外で暮らして思う。言葉の大切さ。言葉の意思疎通による心のコミュニケーションの温かさと楽しさ。そういうものに惹かれて憧れて、そして現実の自分を見てがっかりする日々だった。

憧れ


長年英語圏で仕事をしていた人々やネイティブスピーカーの学生たちとディスカッションしたり、グループワークをしたりするときにずっと負い目を感じてきた。

今書いていてふと思ったけれど、「英語を母語としない日本人」という自分自身が生み出した劣等感に勝手に苦しんで勝手に落ち込んでいるような気がする。

自分の意見を学術的に表現するのは、母語である日本語でも難しいのに英語となるとさらに厄介で、半年以上学生をしていてもいまだに慣れない。

世界の公用語と謳われる英語。今やグローバル化する社会で話せればやっぱり有利なのかもしれない。

しかし「話せる」のレベルは人それぞれで、私のように海外で大学院生をしていても「話せる」には程遠いと感じることさえある。憧れはどこまで行っても憧れなのである。

大学時代は、JICA(国際協力機構)で働く人の講演を聞いたり、京都大学院生の話すなめらかな英語を聞いて、「あんなふうになりたい」と思った。

今、JICAで働き、英語も仏語も仕事で使う様になっても、なんだかあの時憧れたあの人たちのようにはなれていないのではないかといまだに満足ができずに、同期の学生たちの輝かしい経験と佇まいにまた、憧れる。

でも、ちょっと待て。

変わったキャリアを積んできたこの日々が、当たり前なわけがない。
偶然の出会いと幸運が重なって、特別な人生になってきた。

それなのに最近の私ときたら、私がここまで辿り着くまで助けてくれた世界中の友達のことも忘れて、
「私ってダメだあ〜」なんて呟いてNetflixを見てダラダラしてるだけ。

5年前の自分を思い出して?今の私は遥か先まで進んできたじゃないか。

そう、一人で進んできたのではなくて周りに助けられてたどり着いたんじゃないか。感謝せい。そう喝を入れたい。

もしも英語が使えたら

「もしも英語がつかえたら」と、私は今日もつぶやく。
なぜなら、意思疎通ができたとしても、ネイティブの様に話すことはきっと一生できないからだ。
昔憧れたスゴい人々には、一生なれないからだ。

しかしそれは悲しいことではなく、誇ってもいいことだと最近思う。
私は、私でしかないということ。私は、私の言葉しか綴ることができないということ。

例えば、私の話すフランス語は、みんなが想像するようなエレガントなあのおフランスの雰囲気ではない。
カメルーンで暮らして学び、体に染み付いたアフリカ訛りのフランス語なのだから。

でもそれは、私を私と言わんとするためのアイデンティティであり、大切な個性なのだ。


私たちが日本で英語を勉強しても話すことができないのは、もしかしたらその「個性」を悪いものとして決めつけてしまっている社会の雰囲気のせいではないのか。
文法も受験英語もしっかり学んで、基礎は身についているはずなのに、「発音が」「語順が」と気にしすぎる雰囲気が声を殺しているのではないか。

私が今住んでいるコスタリカでは小学生並みの語彙力しかないスペイン語でも、みんな耳を傾けてくれるから会話ができる。相手の質問にトンチンカンな答えで返すこともあるけれど、何も恥ずかしいことはない。意思疎通をしたいという気持ちこそが、自分の言葉を創っていく。

単語と単語を連ねて、文法なんて気にせず声にすることで、意思疎通の楽しさを知る。それが言語の醍醐味だから。

言語は文化であり、言葉は個性なのだ。

だから、いろんな国の、いろんな人の英語に耳を傾けてみる。それはその人を彩るアイデンティティだから、とてもカラフルに輝いている。

それを知ることができたここまでの凸凹人生に、私は誇りを持つ。
そして英語を楽しく話し続けたい。私自身の、私自身しかできない英語を。

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