Smeh liya Morocco - スマヒリヤ・モロッコ

モロッコ駐在生活のことを中心に、色んなことを書いてます。

10年前の曖昧な記憶と好きな作家の話。

今週のお題「名作」


大学生の頃、村上春樹の小説が好きで、大学の図書館に並んでいるものは全て読んだ。
そう思っていた。

今、『スプートニクの恋人』を読んでいるが、全く読んだ憶えがない。
ミュウやすみれの人格は、一度読んだら忘れないはずだと思うから、やっぱり読まなかったのではなかろうか。

まるで自分が全くの他人の記憶を埋め込まれているように感じる。
私の頭の中にはしっかりと、「私は村上春樹の長編小説は全部片っ端から読んだ。」と記憶されているのに。

『1Q84』や『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はしっかり憶えていた。
登場人物は確固としてその信念を変わらず貫いていたし、不思議な世界観に包まれる感覚にも既視感があった。

しかし先日、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を手に取ったが、内容は初めて読むものだった。
実はこの本については、タイトルを見た時点では違う小説(『騎士団長殺し』)の内容とごちゃ混ぜにしており、思い込んでいた内容と全く違っていたので驚いた。

その時から不思議に思っていた。
学生時代の私は、読んでいない本を読んだと思い込み、知らぬまにそれを事実だったか否かまるっきり忘れてしまっていたわけだ。あるいは本当は読んだけれど何かの拍子ですっぽりとその記憶が抜け落ちたのだろうか。そんなことって、起こりうるのだろうか?

10年経った今になって、まるで全く埋めた覚えのないタイムカプセルを手渡され、「実はあなたの記憶の数パーセントは、偽物だったのですよ。」と告白されているような奇妙な気分になった。

兎にも角にも、村上春樹の小説に、私はのめり込んでいた(と言いたい)。
そして今も二度、三度と読み返すくらい気に入っている。
読み返してみると、年齢や自分を取り巻く環境によって、感じることが随分変わることに驚いた。
そして同時に、10年が経った今でも同じように村上春樹の小説が心を揺さぶってくることについても、驚いた。

名作ってなんだろうと、職場の本好きな先輩と話した時に、「時代を超えて、何百年経ったとしても廃れないもの」と言っていた。
この時に名作として出された具体例は『古事記』や『ギリシャ神話』なのだけれど、このブログで語りたい名作はあくまで私にとっての名作である。
たった10年とはいえ、目まぐるしい変化があったし、二十歳だった頃から三十路に入った今までに、いつかは語りたい沢山の物語が詰まっている。
そんなわけで、村上春樹の長編小説はどれも私にとって名作で、私は知らぬまに強く感化されていたらしい。

彼の小説が名作だ、と感じたエピソードは他にもある。

コスタリカに留学していた時、今では親友のウズベキスタン人の学生と初めて話した日のことだ。
ちょうど自己紹介をした後に、私が日本人と知った後の言葉。「日本といえば、自分は村上春樹の『ノルウェイの森』とが大好きだよ。」

彼はロシア語で読んだそうだ。

さらに、今駐在しているモロッコの職場に、大の本好きな職員さんがいるのだが、
「『1Q84』はお気に入り。日本語で読めるなんて羨ましいなあ。」と話してくれたことがある。
彼女は、フランス語で読んだそうだ。

その文章の響きや色彩は一体、異国の言葉だとどのように異なるのだろう?

モロッコの本屋に行くと、仏語版やアラビア語版の村上春樹の小説が並んでいる。
世界中で人気があり、様々な言語で読まれているというのも、名作の特徴なんだろうと思う。

モロッコの店頭に並ぶアラビア語版『1Q84』

学生時代に夢中でいろんな本を読んだことは、(記憶が偽物じゃなければ)事実なのだと思う。
でも村上春樹の小説が本当に好きになったのは、つい最近のことなのかもしれない。

昨年休暇帰国をした際に、村上春樹ライブラリーに行った。
早稲田大学の校内にあって、大きなゆったりとしたソファに座ってゆっくりと村上春樹作品を読むことができる。


www.waseda.jp


『職業としての小説家』という同氏著のエッセイを読みながら、そういえば学生時代は専ら小説にしか興味なかったのに、今ではこうしてエッセイも気になり始めているわけだ。と気づくのであった。興味関心は変化していく。10年前の記憶なんて信用ならないけれど、10年前の私から今の私に至るまで、確かに成長はしているような、そんな気がする。

こうして名作の物語に感化され、好きだった旅行を通じて、文章で表現したいと思うようになり、こうして今もつらつらと言葉を綴っている。
『職業としての小説家』は、頭の中にずっと存在する物語を、少しずつ形にするための第一歩への背中を押してくれた。

村上春樹の綴る物語は、必ずしも共感できるものばかりではなかったけれど(というか小説って共感しながら読むものではないかも)、現実のすぐそばには常に時空の歪みみたいなものが存在して、当たり前だと思っている日常の中で、時に信じられないことや説明のしようがない出来事が起こってしまうことがあるということを教えてくれた。そしてそれは紛れもなく真実であった。

最近は、これまであまり読んでこなかったタイプの小説や新書も含めて、手当たり次第に本を読むようになったし、純文学も手に取るようになった。
夏目漱石、川端康成、三島由紀夫、太宰治、芥川龍之介・・・

10年前の私には読了できなかった本が、
面白く感じたり、怒りや悲しみを感じたり、とにかく入り込めるという感覚に喜びを感じる。

名作を上げればキリがないし、自分が大好きな宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』についても大いに語りたかったけれど、
今回は宇宙人によって記憶を書き換えられたという(?)摩訶不思議なお話を、ちょっぴり語りたかったのでした。

記憶なんて頼りにならないのだから、一度見たり読んだり知っていると思い込んでいたとしても、
今日も私は読みたいと思った本を読み、観たいと思った映画を観て、行きたいと思った場所に行く計画を立てるのです。