Smeh liya Morocco - スマヒリヤ・モロッコ

モロッコ駐在生活のことを中心に、色んなことを書いてます。

この日常が当たり前なわけがない。

もしも英語が使えたら、
きっと大人になった私はキャリアウーマンになって、
世界中の人と友達になって、
地球を飛び回りながら楽しく仕事をしていた。
大学時代までの私はそんな夢を見ていた。
ーーそして今の私も、そんな未来の私を想い描いている。

#もしも英語が使えたら

#もしも英語が使えたら
by クリムゾンインタラクティブ・ジャパン

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劣等感

大学時代私は、英米語学科としてとにかく英会話を勉強しながら教職免許を取るための講義を受けていた。特段夢もなく、ネイティブの話す英語を聞き流して愛想笑いをして、バイト代を海外旅行につぎ込んではバックパックをするという学生生活を送っていた。

4年間勉強しても英語力が伸びた感覚はなく、むしろ話せないことによる劣等感がずっとこびりついて離れなかった。

大学卒業後に、青年海外協力隊(現在のJICA海外協力隊)としてアフリカのカメルーンで働くことになり、英語の勉強に悩んでいたのにフランス語の勉強をすることになった。2年間カメルーンという未知の世界で暮らした経験は、大学で過ごした数年間以上に刺激的で充実していて、脳内の言語回路を発達させるには十分だったらしい。

その後引き続き民間で日本語とフランス語を使った仕事をしたけれど、英語を使う必要が出てきたのは去年から。
退職し、大学院に進むことを決めた私は今、コスタリカ(これまた英語圏ではなくスペイン語圏なんだけど)に暮らしながら、世界中の学生と頭を突き合わせながら英語で環境や開発学についてひたすら議論する日々を送っている。

言語はツールだ。必要なのは専門性とコミュ力。

誰かがどこかでそんなことを言っていた。翻訳機でも海外の人々と話ができる今、言語を学ぶ必要性はあるのかと疑問視する人もいる。
けれど私は海外で暮らして思う。言葉の大切さ。言葉の意思疎通による心のコミュニケーションの温かさと楽しさ。そういうものに惹かれて憧れて、そして現実の自分を見てがっかりする日々だった。

憧れ


長年英語圏で仕事をしていた人々やネイティブスピーカーの学生たちとディスカッションしたり、グループワークをしたりするときにずっと負い目を感じてきた。

今書いていてふと思ったけれど、「英語を母語としない日本人」という自分自身が生み出した劣等感に勝手に苦しんで勝手に落ち込んでいるような気がする。

自分の意見を学術的に表現するのは、母語である日本語でも難しいのに英語となるとさらに厄介で、半年以上学生をしていてもいまだに慣れない。

世界の公用語と謳われる英語。今やグローバル化する社会で話せればやっぱり有利なのかもしれない。

しかし「話せる」のレベルは人それぞれで、私のように海外で大学院生をしていても「話せる」には程遠いと感じることさえある。憧れはどこまで行っても憧れなのである。

大学時代は、JICA(国際協力機構)で働く人の講演を聞いたり、京都大学院生の話すなめらかな英語を聞いて、「あんなふうになりたい」と思った。

今、JICAで働き、英語も仏語も仕事で使う様になっても、なんだかあの時憧れたあの人たちのようにはなれていないのではないかといまだに満足ができずに、同期の学生たちの輝かしい経験と佇まいにまた、憧れる。

でも、ちょっと待て。

変わったキャリアを積んできたこの日々が、当たり前なわけがない。
偶然の出会いと幸運が重なって、特別な人生になってきた。

それなのに最近の私ときたら、私がここまで辿り着くまで助けてくれた世界中の友達のことも忘れて、
「私ってダメだあ〜」なんて呟いてNetflixを見てダラダラしてるだけ。

5年前の自分を思い出して?今の私は遥か先まで進んできたじゃないか。

そう、一人で進んできたのではなくて周りに助けられてたどり着いたんじゃないか。感謝せい。そう喝を入れたい。

もしも英語が使えたら

「もしも英語がつかえたら」と、私は今日もつぶやく。
なぜなら、意思疎通ができたとしても、ネイティブの様に話すことはきっと一生できないからだ。
昔憧れたスゴい人々には、一生なれないからだ。

しかしそれは悲しいことではなく、誇ってもいいことだと最近思う。
私は、私でしかないということ。私は、私の言葉しか綴ることができないということ。

例えば、私の話すフランス語は、みんなが想像するようなエレガントなあのおフランスの雰囲気ではない。
カメルーンで暮らして学び、体に染み付いたアフリカ訛りのフランス語なのだから。

でもそれは、私を私と言わんとするためのアイデンティティであり、大切な個性なのだ。


私たちが日本で英語を勉強しても話すことができないのは、もしかしたらその「個性」を悪いものとして決めつけてしまっている社会の雰囲気のせいではないのか。
文法も受験英語もしっかり学んで、基礎は身についているはずなのに、「発音が」「語順が」と気にしすぎる雰囲気が声を殺しているのではないか。

私が今住んでいるコスタリカでは小学生並みの語彙力しかないスペイン語でも、みんな耳を傾けてくれるから会話ができる。相手の質問にトンチンカンな答えで返すこともあるけれど、何も恥ずかしいことはない。意思疎通をしたいという気持ちこそが、自分の言葉を創っていく。

単語と単語を連ねて、文法なんて気にせず声にすることで、意思疎通の楽しさを知る。それが言語の醍醐味だから。

言語は文化であり、言葉は個性なのだ。

だから、いろんな国の、いろんな人の英語に耳を傾けてみる。それはその人を彩るアイデンティティだから、とてもカラフルに輝いている。

それを知ることができたここまでの凸凹人生に、私は誇りを持つ。
そして英語を楽しく話し続けたい。私自身の、私自身しかできない英語を。

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