Smeh liya Morocco - スマヒリヤ・モロッコ

モロッコ駐在生活のことを中心に、色んなことを書いてます。

夜の朝食

モロッコに来て一年が過ぎた。

と言っても、モロッコについて深く観察しているわけでも、歴史や宗教観について勉強しているわけでもないから、見たことや聞いたことをそのまま文章にするくらいしかできない。

最近は長い間、ブログを公開せずにいたけれど、この時期になると感じることが多くて、ついつい筆を取りたくなってしまう。
それが、年に一回訪れるイスラームの大イベント、ラマダン月。

久しぶりに、感じたことを書いてみる。

ラマダン月はイスラーム独自の暦(こよみ)で計算されるので、毎年日付が変わる。

今年は3月12日から始まり、終わりは4月10日か11日になると言われている。
ラマダンの始まりと終わりは、国の「宗教省」が前日に日程を正式に公開する。最終的には月の満ち欠け具合を見て決めるので、直前までわからない。開始日は、三日月じゃないとダメだそうだ。

ラマダンの終わりにはアラビア語で「イード」(祝宴)と呼ばれる祭りが二日続き、祝日となる。
今年は、10日(水)11日(木)が祝日になる説が濃厚らしく、国は特別に12日(金)も祝日にしちゃおうという方針らしい(そんなのアリなのね)。

金曜日も祝日にしちゃうよん、って正式に報道されとる記事↓
lematin.ma

ラマダン中は、モロッコの人々は宗教心を高め自省と精神統一をするために、陽が昇っている間は飲食を一切断つ。
性行為や悪態をつくことも禁じられ、貧しい人の気持ちに寄り添い、施しをより盛んに行うよう努める時期だという。

みんなで(国をあげて)やっているので誰もが当たり前のように断食をしている。
例外はこども、妊婦、生理中の女性、病気の人々だ。対象の人々は断食を免除されるという教えがあるらしい。

レストランやカフェは日中一切開いておらず(一部外国人向けのレストランやファーストフードショップは除く)、酒店もすべて閉まる(ラマダン中にムスリムに酒を売ることも違法なんだそう)。

人々は陽が沈む直前に家に帰るため、道路は大渋滞となり、日没の時刻にはゴーストタウンと化する。

ゴーストタウン化した日没後の街

私は、断食後初めての食事「ftour」(フトール)(モロッコ語・ダリジャで「朝食」を意味する。)にお呼ばれされたことがあるが、日本で生まれ育ち、ムスリムには無縁に生きてきた私にとっては、とても不思議な体験だった。

モロッコの4月、日没は18時40分ごろである。

18時30分には家族一同で食事をテーブルに並べ、いつでも食べられるようにセッティングが完了している。皆ソファに座って、ご馳走を目の前にして、ただ待つ。ひたすら、待つ。

日没の合図は、モスクからの放送(アラビア語の歌うような声)またはサイレンが告げる。
サイレンは非常時に鳴るあの音と同じだったのでびっくりした。

合図の瞬間に皆、まずは水の入ったグラスを手に取る。
サイレンが鳴り響いている間にコップ一杯を飲み干すと、次はデーツ(ナツメヤシの実)に手を出す。

デーツ

私はこのお呼ばれの日、朝から何も食べていなかった(というか出張中で、周りの雰囲気的にも食べられなかった)。
普段断食をしていない身体は、もちろん食事を求める。強い空腹。4月と言っても照りつける太陽の光は鋭くて、汗ばむ。唇が乾いて、頭痛がする。

そんな苦痛極まりない状態の中、ようやく日没だ、というタイミングで飲むことができた水の、なんて美味しいこと。
甘すぎると敬遠していたデーツの、なんて甘美なこと(この日から本当にデーツが好きになった)。

この満足感は、確かに断食をした人にしかわからないのかもしれない(しかし、モロッコ人のように慣れていないので、体調を崩しそうだった。無理は禁物。)。

そのほかに、牛乳、ゆで卵、ハリラスープ(トマトベースのスープ)、パン、シュバキア(キャラメルコーティングされた小麦粉の揚げ菓子)はフトールでお馴染みのメニューだ。
そのほかの料理は、家庭によってタジンを食べたり、フルーツや野菜を食べたりとそれぞれだそうだ。

一般的なフトールの食事(レストラン)

鳴り響くモスクからの声が、深い青に染まった空に溶けていく。食べ物が、身体の中をくぐっていく。

空腹に急に甘いデーツとシュバキアを食べると、お腹がいっぱいになって食べる手が止まる。皆、それほどの量を食べるわけではないらしい。

お呼ばれした家でも、中学生と大学生の姉妹がすごい勢いでスープを飲み、ケフタという肉団子をパンに挟んで数口頬張ったかと思うと、数分後にはお腹いっぱいと言って食べる手を止めてしまった。並べられたご馳走はほとんど減っていない。

いつもこれしか食べないの?と聞くと、「少し時間が経ってからちょっとずつ食べるの。時間が経ってはつまんで、また寝る前につまんで・・・そんな感じかしら。」
太りそう、と思ったが何も言わまい。

ゲストとしてもてなしてくれたその一家で、私は20代の頃から比べてずいぶん収縮した胃に、次々と詰め込むことになった。

とても美味しいのだが、延々と取り皿に料理が乗せられて胃が苦しかった。

郷に入っては郷に従え。言うは易しだ。

お呼ばれした先で振る舞ってもらったご馳走


私にはこの宗教観を理解することはできないと思う。
結局は好奇の目で観察し、印象に残った部分をかいつまんでこの文章を書いている。

他のアラブの国で暮らしたことはないから、他の国ではまた違ったラマダンの雰囲気があるのだと思う。

私が書いたのは、あくまで私が見たモロッコのラマダン月。モロッコでも地域や家庭によって過ごし方は異なるのだろう。

理解はできなくても、共感はできなくても、
この伝統的な儀式を重んじて、丁寧にルールを守って生きている人々を素直に尊敬する。
外国人である私を、そんな大切な「夜の朝食」に呼んでくれたことが、嬉しいと思う。

普段食べているもの、食べ物から作られている私の身体、血液をめぐる水。
誰かに施しをする気持ち、信仰する心、空腹を耐えられる精神。

私が日本で食べる前に掌を合わせるように、神社に行くと賽銭に小銭を入れて神頼みするように。
彼らにとって何年もかけて身体に染み込んだ習慣。なのかな。

分かったようで、わからない。でもそれでいいなあ。

毎年行われる大きなお祭りのようなもの。とあるモロッコ人はそう言っていた。
「断食は慣れればどうってことなくて、「夜の朝食」が楽しみになるラマダン月が好き。」

彼らの聖なる月。

私もそこに偶然、ちっとばかし、お邪魔している、
そんな気持ちでいます。