Smeh liya Morocco - スマヒリヤ・モロッコ

モロッコ駐在生活のことを中心に、色んなことを書いてます。

「偉大なる平凡人たれ。」を目指してみているぴょんです。

皆様本日は私のブログにお越しいただきありがとうございます。

 

本日は自己紹介でございます。といってもただの自己紹介じゃないため

ちと長いので忙しい方はこっちをどうぞ。

 

文章じゃなくて、写真眺めたい気分な人はフォトブログをのぞいて見てね。

 

https://jv281mbalmayonina.tumblr.com/post/171664296601/la-journ%C3%A9e-internationale-des-droites-des-femmes

jv281mbalmayonina.tumblr.com

 

 

タイトルにあるへんてこな言葉ですが、

私が通っていたとある私立中学校のモットーでした。


この中学校、今年で閉校になってしまいます。

寂しいけれど、この言葉をくれた母校に感謝をこめて、この記事を書きます。

 

正直、私は最近まで、この言葉の意味がよくわからなかった。

だって、偉大な人と平凡な人ってなんか釣り合わなさそうやん。

そう、「偉大な」「平凡人」ってこの世に存在しないでしょって本気で思ってました。

 


※「偉大なる平凡人」という言葉にはきっと様々な解釈を持たれるかと思いますが、

ここではあくまで、自分の人生を堂々と生きている人、

迷いながらも自分なりの楽しさや自分の「色」を活かした生き方を知っている人など

非常にポジティブな意味としています。

ゆえにこの文章に書かれている内容は、だれかを中傷したりする意図は全くありません。

むしろ敬意をもって書かせていただいていますのでご理解の程宜しくお願い致します。

 

目次

・ぴょんって?

・思考停止中に留学先で頭を殴られた(←比喩)大学時代

・出逢った「カラフル」な協力隊候補生

・アフリカは未知以上に未知だった

・「普通」「天才」「平凡人」

・これが自己紹介だと…?

 

ぴょんって?


 

ぴょん、というのは大学の時のあだ名。

 

ジャズ研究会に入部して、当時の部長が私の名前が「飛ぶ」を意味しており、「なんか雰囲気ぴょんぴょんしている」という理由から付けたあだ名を卒業してカメルーンに来た今も使いやすくて使っているのです。海外でもみんなすぐ覚えてくれて使い勝手いいのです。

 

「ぴょんと申します。」って、全然ふざけてないよ。


思考停止中に留学先で

頭を殴られた(←比喩)大学時代


 

 

ちっちゃいときのことはぶっ飛ばします。

 

大学では英語を専攻したけれど4年間英語圏には留学せず、短期でイスラエルでヘブライ語を勉強したことが唯一の留学経験。


そこで出逢ったあまりに賢く意識の高い同年代の学生たちに衝撃を受け、これまで生ぬるい学生生活を過ごし、敷かれたレールをなんとなく歩いてきた自分に疑問を持ち始めた。

英語力は当時人並み以下。相手の話がわからないのにただ愛想笑いでごまかしていた時代

※ヘブライ語は、すっかり忘れました。

 

Israel Haifa city in 2014

 

このまま、のほほんと講義を受けて、単位を取って、就活して、卒業して

――そんなんでいいんか?

 

と思い始めて、平々凡々な大学生活が狂い始めた。部活を辞め、図書室にこもり、映画を手当たり次第に観て、バイトのシフトを半分くらい削った。

4回生の夏休みには「国際協力」「開発教育」「途上国」と名の付くあらゆるセミナーに参加し、違う大学に聴講しに行った。それでもこれまでずーっと眠っていた脳みそで考えたところで、なかなか答えは出ない。


その時にたくさんの人生の先輩とJICA海外協力隊(当時は青年海外協力隊)経験者に出逢ったときに、藁にもすがる思いで尋ねた――新卒でも、青年海外協力隊を受けることができるのでしょうか。

 

結果、就活を一切せず、教員採用試験も受けず、卒業まで半年を切ったころで協力隊応募用紙とにらめっこをし、大学のキャリアセンターに「国際協力とは?」などと問うような無茶な模擬面接を頼み込んだりして気が気でない年末年始を過ごした。

 

そして――人生が変わった


 

 

無我夢中で何かにめがけて突っ走っているときは、全く自覚がないものだけれど

あのとき、人生で初めて必死になった。そして目指していた場所に到達した。

自分の人生を自分で創り上げた!そう感じた瞬間だった。

 

「当たり障りなく生きていければいいか。」って思っていた。

本気にならず、自分のキャパシティを決めつけてしまっていた。

 

ああ、でも、わたしなんかでも合格できるんだな。

とあったかい涙が出たことは忘れられない。


そして自分が選択し、切り開いた未知の世界に飛び込むことが

不安ながらも楽しみで仕方がなかった。

 

 

出逢った「カラフル」な協力隊候補生


 

JICA海外協力隊のシステムはすごい。

 

たとえ外国語ができなくても、派遣される国の言葉を約2カ月間みっちり鍛えてくれる「訓練所」というものがある。そして安全面、途上国で生きていくための知恵、分野別の研修(職種によって有無が異なる)など、しっかりとした準備期間がある。

私は中央アフリカ地域に位置するカメルーン共和国への派遣が決まり、公用語である「フランス語」の学習が義務付けられた。

 

そこには、様々なバックグラウンドを持った訓練生がいた。

 

ベテラン教師、ヨガインストラクター、ピアノの先生、職場に籍を残してやってきた会社員、何年も勤務した会社を辞めてきた人、フリーランスライターや小説家、水道や電気のスペシャリスト、そして私のような大学を卒業して間もない人などなど。

 

JICA海外協力隊でなければ出逢うことがなかった100人を超える人々がこうして一つの訓練所に集まり、その後世界中に散らばっていく。それはもう刺激的で興味深い期間だった。

 

そこでは一人一人が自分の「色」を持っていた。

いやーーきっと大学でもそうだったんだろう。ただ自分が気づかなかっただけで。

 

音楽ができる人が集まってコンサートを開いたり、スポーツが得意な人がみんなにヨガ講座やスポーツ大会を企画したり…。

 

すごいなあ。かっこいいなあ。

 

自分は…あれ?

そうだ、自分は「何色」なんだ…?

 

――思いやりのある人々に囲まれ、皆の素晴らしく波乱万丈な体験談に耳を傾けながらも

私は当時、自分のことばかり考えていた。

 

 

アフリカは未知以上に

未知だった


 

最初はね、赤土の大地に感動したり

山々の緑が淡くて日本と違ってるなーと

呑気に自然観察をしてた。

 

けれど蚊の猛威、乾季の大気汚染、雨季のスコール大騒音、平然と腕掴んでくる道端のカメルーン人、「ひーほー中国人」と軽蔑じみたトーンで叫んでくる人々(皆がみんなじゃないし、私は中国人嫌いじゃないです)、ガソリンくさい首都、釣り銭がいつもないスーパーマーケット、不愛想な店員、異臭のする公共便所(時にトイレがないので草むら便所)…というこれまで体験したことがない強烈な体験をしているうちに、


「ここで生きてるだけですごくないか」


と思うようになっていた。


今まで自分自身を認めてあげられなかったのが

自分で自分をたまに褒めてあげないと精神が持たない境地に立たされたのである。


活動では何度となく勤務先で様々な挑戦をしたが、その分何度も心をへし折られ、

実家の快適な布団とかおいしい食事を思い出してホームシックだったこともあった。


でも、同じように奮闘している隊員や、協力的な同僚に助けられてもがいてるうちに

あら、もう残り3カ月…あら、もう来週帰国?という猛烈な速さで時が過ぎていった。


カメルーンのことを話し始めると止まりませぬ。


私は2016年1次隊環境教育隊員として派遣されていました。

隊員時代のことはこちらのブログを是非訪れてみてください!

 

「普通」「天才」「平凡人」


 

私はこれまで、「普通」という言葉を多用していた。

 

「普通はこうであるべきじゃない?」「普通やで」「それが普通なんじゃない」「普通の服で行く」「普通に話そう」「普通に良いね」普通、ふつう、ふつー…

 

普通。なんだか安心する言葉だったんです。

 

なんか自分にしっくりくるというか。

 

でも、カメルーンで二年間過ごして思った。

自分の中の「基準値」は、みんなにとって大きくズレていて

カメルーンではそんな基準値を見つけられる「線」さえも存在しない。

 

普通って何なの?私の中に物差しがあって、

その何の信ぴょう性もない基準値で物事をはかろうとしているの?

どうやって普通を決められるの?

 

結局、普通なんてなかった。どこにも。

 

「人のあり方なんて、無限なんだなあ。

自分は、これでいいんだなあ。」

 

と、気づいた。

 

例えば、カメルーンの子は紙を横向きにして文字を書く。

 

あるとき、

「今の日本の教育は、天才を探すためにある」

ととある教育者さんが言っていた。

 

ええそうなんですか?!

 

――すごく不安になったのは、

自分が天才じゃないという自覚があって、

今後も天才になることはないと良くわかっていたからなのかもしれない(笑)

 

残念だけど、まあ仕方ありませぬ。

天才というのはこの世に一握りしかおらんらしいし。

 

でもせめて、

「天才」じゃなくても「要領がいい人」「自頭がいい人」「世渡り上手な人」「器用な人」みたいなカテゴリーにはいりたかったなあ。

という欲望は、ずっとずっと心の中にあります。今だってそう。

 

でもねー、

上のカテゴリーに自分を含めようとすればするほどに、苦しくて、自分の存在が否定されてる感じがして、自分が何色でもなくて、雑踏に溶けてなくなっていって、コンクリートに同化して消えてしまうような…そういう謎の恐怖に襲われる。

 

上のカテゴリーのどれかに属したかった。

せめてアレルギー体質とかない人生送りたかった。

せめて容姿が、声が、話し方がこうなら、ああならよかったのに。

…などなど他人と比べたこと、私はあります。皆さんは、どうでしょうか?

 

でも、比べれば比べるだけ損

自分が疲れるだけなんだってよくわかりました。

 

つまりは~

「平凡」に「堂々」としてりゃあいいんだ。

 

頑張りたくない気分の時は、頑張ろうとせずに休もう。

自分の嫌な部分はなくならない。でもいい部分だってなくならない。


私は私だけしかいない。だから自信を持つんだ。

 

ダイエットしたければすればいい。

中国語勉強したいと思えば本買ってみればいい。

ブログ始めたいと思えば始めればいい。

ギター弾けるようになりたいと思うなら弾いてみればいい。


周りは何とでもいうだろう。指をさして笑うかもしれない。

何だこの文章、えらそうに。ギターへったくそ。ダイエット?ほんとにしてるの?中国語始めるとか言って全然してないやん。などなど。


でも、これは私が自分の意志で始めたこと。

成功か失敗か、良いか悪いかは私が決めること。

自分自身で考えて、行動に移し、あれ?と思えばやり方を変える。


私は器用じゃない。要領も悪い。自頭も悪い。運動神経もめっちゃわるい。


ネットで色々調べたり、書籍を読んだりして知識を補ってみても

行動でそれと同等の結果を生み出すことができない。


でも、でもでもでも!


行動することに、全く無駄なことなんてないって思うんだ。

それが、自分の意志の伴う行動であれば。

 

そりゃあ、


勉強中にゲームや漫画に誘惑されることもあるし

ダイエット中にお酒飲みすぎることだってあるけども、


周りと比べたり、周りの意見に左右されて

行動するのを辞めるのはもったいないな!っておもった。

 

自分が「これでよかったんかな?」って迷いながらでも

「まあ、前すすんでるし?」「まあ、今日もちょっとだけ目標に近づけたし?」

みたいな自己納得ができれば立派だよな、なんて思う今日この頃。

 

 

これが自己紹介だと…?



ここまで読んでくださった皆様、

ありがとうございました。


自己紹介って、自分の生い立ちとかを書くもんなのかなって

はじめはおもったんですが、みんなそんなことあんまり興味ないだろうと思いまして(笑)


このブログ、あくまで「みんなに読んでもらうためのブログ」です。


長すぎてもあんま読んでもらえなかったりして…。


とにかく、今回は自己紹介ということで、

自分の生き方について書いてみてしまいました。


タイトルの通り、我が中学校のモットーの通り

私はこれからも「偉大なる平凡人」を目指していきます。


ありがとうございました。


また明日!!