Smeh liya Morocco - スマヒリヤ・モロッコ

モロッコ駐在生活のことを中心に、色んなことを書いてます。

想像力の広げ心地

今週のお題「最近読んでるもの」
『オールドテロリスト』村上龍

朝晩によく雨が降る。時折冷たい風が吹く。
日は短くなり、退勤時間の空が深みのある蒼に染まる。
名前も知らない木に、薄ピンクの花が、ぽつぽつと咲いている。桜とは違う、異国の花だ。
紅葉はないが、確実に秋めいた空気になっている。

***

職場の隅の忘れられた一角に、書庫のような場所がある。
そこを見つけた時は、なんだか秘密基地を見つけた小学生のような気持ちになった。

学生時代に読んだ小説や、古本屋とかでよく見かけるけど開いたことがないような分厚い本とか、90年台の地球の歩き方「モロッコ」や外交史とか中東情勢とか日本経済の本がずらりと埃をかぶって並んでいる。奥行きのある本棚だから、手前の本の後ろには別の本の背表紙の影が見える。

それを見つけてからは、気の向くままに本を手に取り、仕事以外の時間はほとんど本を読んで過ごすようになった。数週間前の話。

それは、今の自分が必要としていることだったのかもしれない。
ネットや知人から得る情報でいっぱいになった脳みそは、「十分に頭を使っている」と錯覚し、ろくに想像力を働かすことがなくなっていたから。

やたら時間を持て余していた学生時代は、よく図書室にこもって手当たり次第に本を読んだ。
そうして、読み慣れない漢字や、会話では絶対使わないような言い回しを学んだ。学んだ、というよりはごく自然に吸収していった。

その頃の自分が、本を読んでいたからどうだったかとかは、あんまり関係ない。
ただ、自分が本を読んでいる時の方が心地がいいだけだ。

そういう感覚は、忙殺の中でいつしか忘れられていた。
でもその秘密基地を見つけてからというもの、本からしか得られないことを思い出す。

ーーーそれは、「想像力」だった。
そしてそれは、自分が文章を書くときや、話をするときや、思考するときに最も大切にしていることだった。
・・・のかもしれない。それは、ここ数ヶ月で随分衰えてしまっている。

***

小説の主人公は、仮に特徴がないように描かれていても、やはり現実離れして風変わりに見える。それはおそらく、文章によって具体的なところまで描写されるからなんだろうと思う。

今読んでいる『オールドテロリスト』には、精神安定剤を噛み砕くシーンが何度となく描写される。筆者はそれを噛み砕いたことがあるんだろうか。それをビールで流し込んだことが、あるのだろうか。

現代に蔓延る「不安」とか、なんとなく暗い雰囲気の日本、
テロ、抑うつ、PTSD、暴力、クスリといった物々しいワードを、怖いほど現実的に、現代の日本に埋め込む。

ちょっとばかし世界の軌道がずれていたら、現実に起こっていたかもしれないことばかりだ。
いや、ただ私が知らないだけで起こっているのかもしれない(実際外国では戦争とかが起こっているから、あり得ない話じゃない)と思うと、ただ戦慄する。

筆者は、もしかしたら現代に瓜二つの、でもちょっと違う(例えば月が二つある)世界に身を置いて、その恐ろしい事件に巻き込まれて、体験談を書いているのではないかとイメージする。
精神異常者やPTSDやパニック障害の人々の描写が具体的で、身震いする。(少なくとも私は、具体的だと感じたというだけだけど。)

この小説に出てくる、カツラギという色白でスラリとした和風美人の女性。
若く洗練された容姿だが、強い安定剤を常服しており、精神に不安定なものを抱えている。
「常軌を逸する」子供時代を送り、人とうまくコミュニケーションを取ろうという努力が感じられない。会話が噛み合わない。笑いのツボが謎。でも言葉一つ一つが本音。そして本質をついている。

主人公であるセキグチは、記者の仕事を失い、妻と子供が出ていき孤独となり、抑鬱状態が続いている。金はなく、ボロアパートに住んでいる。中年でホームレスのような格好をしている。(そんな絶望の中で、細々とネタを掴んでは記事を書く仕事を続け、テロ事件に巻き込まれていくという話)。

そんな彼の「ごく一般的」思考や質問に対して彼女は、「どこまでも幸福な人ね。」と微笑む(多分あのシーンで彼女は微笑んだと思う)。
そのときに彼が感じる描写が、ものすごく、「わかる」のだった。これだけ悲しい経験をしてきた自分を、「幸福」?でも、ああ、本当だ。そうだな。と彼女の本質的な言葉に納得していく描写だった。

小説のいいところは、自分が上手く表現できない感情を、細かく、本当にわかりやすい言葉で代弁してくれている(あるいは似たことを表現してくれている)ところだ。

まるで自分がセキグチのように、その言葉の棘に傷つき、自分がカツラギにそう言われているような気がして、胸がギュッとなる。
でも悪い気はしない。想像が広がる。「普通」では起こりうらないことが、小説ではしっかりと記されている。

分厚いハードカバーの本をめくりながら思う。
小説家を、ストーリを書いて世に出す人々を、本当に尊敬する。

***

そういう微妙な「現実離れ」なストーリーを延々と読んでいると、

想像力のない発言や指摘ほど腹の立つものはないと思えてくる。
おそらく、想像力こそ自分が大切にしていることだと感じたのは、小説を漁るように読み始めたつい最近のことだ。

以前にも一度書いたことがあるけれど
「普通〇〇だ。」と自分の枠で考えた常識を、他人に突きつけるという行為が自分には理解ができないということ。

それはつまり、他の人には他の人の物差しがあるという想像力に欠けているということが、
個人的に怒りを抱く要素になっているからなのだと気づいた。

pyomn310.hatenablog.com

モロッコにはモロッコの、日本には日本の考え方や物事の進め方があるように、
世代ごとに、出生地ごとにーーーーいいや、70億人の人間一人一人ごとには、大切にしていることがあり、それは似ていたとしても誰一人同じものではない。おそらく。だからこそ「普通」がまかり通る社会に合わせていたとしても、合わせられているとしても、やっぱり心はどこかで叫びたがっている。違う、チガウ。大切なものは、本質は、もっと深く、複雑なんです。

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大学院の勉強においても、仕事においても、
「想像力」というのは必要なものだとわかっていたけれど、わかっていなかった。
つまりは想像はしていても、それを拡げていく努力を怠ってきた。

最近は、社会に馴染むこととか、ちょい先の未来の不安を払拭することに尽力しすぎて、想像に浸ることをすっかり忘れていた。

まあ、それでもなんの問題もなく、やっていけるのだった。
職場の書庫を見つけなかったら、気づかずに想像力はどんどん削り取られて、損なわれていったと思う。

小説は少なくとも、凝り固まった脳みその狭苦しい四畳半くらいの想像力に、新しい風を窓から吹き込ませることができる。
そして自分が大切にしていたささやかな何かを、もう一度見つける。

想像力の広げ心地は、悪くない。新鮮な気持ちになる。
背表紙をひとしきり眺め、埃を払って本を開く。ワクワクする。
読書の秋は、始まったばかりなのです。