綺麗が溢れている。
授業で訪れた牧場や農家は、火山の麓や山奥にあって、街を見渡せる高台や、息を呑むように静かな水源を見た。
無数の牛が放牧された草原で、真面目に先生の話を聞いているふりをしながら、その美しい風景に心を奪われていた。
いつか行った海、夕暮れの時間。
無数の色が、太陽を中心に散らばっていて、淋しげで温かな一瞬だった。
いつも、言葉が見つからない。
beautifulもcrazyもprettyも普段から使いすぎているせいで、なんだかその特別を表すことができない。
そんな宙ぶらりんな語彙不足に苛まれながら、学生の仕事としては環境問題のことについて議論したり書いたりする作業をこなさなければならなかった。刻々と時間が過ぎる中、立ち止まって考え込んでいることがとても多くなった。
*
年末年始の怒涛のヨーロッパから帰ってくると、太陽光と花とハチドリに迎えられた。
あの凍える寒さが嘘のように、汗ばむ陽気。植物はこの熱気を喜んでいるかのように葉を揺らし、花を開く。
ぽかぽかと優しい空気に気持ちは浮かれて、
授業が始まってもなかなかこの「ふわふわ」はおさまらなかった。
散歩せずにはいられなかったし、買い物中に友達に会うとついつい長話をしてしまう。
一週間の自己隔離中はオンラインで授業を受け、しっかり体調を整えた。
学校へ行くのを首を長くして楽しみにしている自分がいた。
ついに隔離後、月曜日にワクワクして学校に行った。
花と緑にあふれたキャンパスで、風を感じながら授業を受けるのはやっぱり心地いいな。
今週は毎日登校しよう。そう思った矢先のことだった。
空白の時間
コスタリカでもじわじわ広がりつつあったCOVID19はついに、
国連平和大学にも忍び寄ってきて、あっという間に感染を広げた。
年齢層が若い+ワクチン接種済みの人がほとんどでありながら、風邪のような症状を訴える人が急増。
大学は先週から短期的に閉鎖され、全てがオンラインとなってしまった。
毎週、ヨガやサッカーランニングなどのイベントが絶えなかった午後の時間が、急に空白になったのだ。
論文を書くことを決め、卒業プロジェクトの準備もそろそろ始めなければならない中、この空白の時間は個人的にはありがたかった。
人によっては、海の見える場所に泊まり込んで、旅行をしながら授業を受けたりしているらしいけれど、
旅行から帰ってからの私はなんだか力が抜けていて、どこかに行こうという気にはなれなかった。
ただ料理をしたり、散歩したり、日本の家族や友達に連絡を取ったり、勉強したりを繰り返すようなルーティーンが欲しかった。
近所にプールがあることを知り、週に何度か通う事にした。
朝に、歩いたことのない林道を開拓してみる事にした。
ちょっと遠いスーパーまで買い物に行ってみる事にした。
毎日の選択肢
こうした生活の「選択肢」があることが、とてもありがたいと思う。
カメルーンに住んでいたころは気軽に通えるプールなんてなかった。
安全に散歩できる道も、森林浴ができる公園も、近くにはほとんどなかった。
せいぜい家で凝った料理をしたり、絵を描いたり、誰かの同伴でマーケットに出掛けるくらいのオプションしかなかったんだ。
あの日々を過ごして、「やることリスト」とゆるめの「ルーティーン」を決めておくことが習慣になった。
何も決めずに1日を過ごしてしまうと、変な罪悪感が生まれる。「今日は全然生産的じゃなかった」「ダラダラしすぎた」と、もやもや考えてしまう。
だから、あらかじめその日にやることを、朝の30分間でノートに書き出す。思いついたアイデアとか、気になることを殴り書きしてみる。こなすべきタスクはもちろん、日々積み重ねているワークアウトや言語の勉強も、なんとなく何時ごろにするとか決めてみる。
すると、1日が終わる頃には、そこに書いたことが実現していて、なんだか気持ち良くなる。
大切なのは、きっちり決めすぎないこと。頭の整理にもなるので、ぜひ、やってみてほしい。
①なんでも良い。お気に入りのノートを用意する
②朝起きて、コーヒー(好きな飲み物)を淹れて、ノートの前に座って、落ち着く。
③30分タイマーをセットする。
④自分の頭の中に浮かぶことを文章でも絵でもなんでも良いから書いてみる。
詳しくはこちら〜
pyomn310.hatenablog.com
デジタル・デトックスの話
朝に色々書き出して、やることを片付けて、「はあ、疲れた」と休憩する時間があったとする。
その時、大体私はiphoneを片手に何も考えずにSNSを開いていた。理由がないことがほとんどだった。無意識でこのアクションが行われていたことに気づいてゾッとした私は、本当に必要な時以外SNSを見ないときめた。
ただ、考えた末、SNSが「必要な時」は全くなかった(笑)
連絡手段としてのラインとwhatsappがあれば十分で、あとiphoneの使い道といえば、コスタリカの通貨のレートをドルに換算する計算をしたり、わからない言葉をsiriでググったり、音楽をかけたりするぐらいで、ほとんど画面にタッチすることがなくなった。
コスタリカに到着してからというもの、インスタグラムに懸命に色々な写真をあげて日本の友達や家族に近況報告することに努めていた。
日本の友達の近況を知るために投稿をみたりもした。
しかし今や更新するフォロワーはほぼコスタリカに住む同期の学生ばかりになり、投稿をつらつらスライドしても、春爛漫のコスタリカの花々の写真と、見覚えのある海や山での集合写真だとか、つまりは近所の出来事ばかりが目に入るようになったのである。
「自分の足で行ける場所、会える人のことは、SNSでみる必要はないでしょう。」と思い、
インスタグラムのアイコンを長押しし、震え始めたそいつを×で消してみた。
さらば、インスタグラム。
ついでに青いFのアイコンと、水色の鳥のアイコンも震えていたので、消した。
それからはや数週間だが、「合間の時間」がこれほどたくさんあったのか、ということに驚いている。そして、なんだか自分の生活に集中できている感じがして、心地が良かった。
そして家族や友達には、個人的にお気に入りの写真を送ったり、メッセージを書いたりする事にした。
呼吸して春
朝のヨガをする15分間は、体内時計に刻まれて、習慣化した。
からだをねじりながら、吸って吐く。窓の外の緑がそよ風に揺れていて、鳥たちがさえずる音を聞きながら、生きていること、健康なことを感じる。それだけで、贅沢だ。
内的な平和は自分次第だ。朝早く起きることから、自分の平和は形作られているような気がする。
コスタリカは春がきたらしく、どこかしこに花が咲いている。
その色は見事に様々で、みていて飽きない。
真昼は太陽が照り付けて暑いのだけど、夕方になると涼しい風が吹き始めるので、自然に外に出たくなる。
友達と歩きながら、名前の知らない花々の写真を撮った。腹の赤いオオハシと、尾の黄色い鳥の群れを見た。
一番きれいな夕日の時間は、スマホを取り出すことも忘れて、ただ見入った。
やはり綺麗なその世界をうまく表す言葉は見つからなかったから、ただ黙って、息を吸って、吐いた。