今週のお題「盛り」
久方ぶりの社会人は、しんどい。
だから、「盛り」すぎて社会人としてのちょっとしたつぶやきが、スケールが変わってベクトルの向きがバグった感じのブログを公表する。
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ものさし、という言葉がある。
人の頭の中にある、色んなものをはかる指標のことだ。
それは必ずしも30cm定規でもなければ、円を描くためのコンパスであるとも限らない。
そんな曖昧なもので、人は人を測り続けている。
その基準となるのが、これまた曖昧で目には見えない「普通」という指標だ。
これも人の頭の中にあるせいで、個人差がある。
つまり0という指標が、0ではない「認識」をしている人もいるということだ。
数学は嫌いなので、これ以上数字の話をするのはやめるが。
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君たちったら何でもかんでも
分類 区別 ジャンル分けしたがる
ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか
と, とあるアーティストは歌っていた。
「変わってるね。」
ずっと気になっていたんだけどさ、
その言葉は、どこからやってくるのだろう?
そもそも、「変わっていない」場所は、どこにあるのだろう?
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「普通はそんな状況なら自分が謝るよね。」
「普通に考えたらこういう部分は注意するのが常識だよね。」
という言葉を聞いた時に叫びたい。
普通ってなんですか?
生き生きとした若芽を摘むのも、物事の多角的な事実を見ずに一方的に決めつけるのも、この「普通」という二文字で十分だ。
この言葉ほど強烈に、自分の物差しを他人に突きつける瞬間はない。
数年前に「普通は・・・」という言葉を濫用していた自分が恥ずかしい。
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俺たちはもっと曖昧で
複雑で不明瞭なナニカ
悟ったふりして驕るなよ
君に君を分類する能力なんてない
いわゆる「普通」が蔓延る世界で、いろとりどりの普通基準によって定められた曖昧なカテゴリーで人は分類されている。
でもカテゴリーに当てはまらない人たちがあぶれて、気まずい思いをしなければならなくなる。
つまり、この世界はまるで普通基準に準じてなければならないかのような構造になっているのだ。
あとはセカオワの「Habit」という歌を聞いてくれれば良い思う。
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ぶきっちょな自分が嫌になることがある。
だから、前向きなフリをしてよく笑ってみる。
自分の物差しで人の顔を叩きつけたり、他人の物差しで叩きつけられたりした。あぶれ者にとっちゃ戦争が絶えないのが普通社会である。
けれど幸いなことに、その物差しを奪って川に投げ捨てようとしてくれる友達が多かった。
「そんな物差しいらんやろ。」
そう言って丸ごとハグしてくれるだろうなって人が、頭の中に何人か浮かぶ。そして思い出すのはあのコスタリカの日々だ。
なるほど、これで良いのかと、私はその物差しを川に捨てる。
混沌の中に身を置くことに、深い安らぎを感じる。
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「複雑で不明瞭なナニか」が溢れてとまらない。
「普通」なんて存在しないのだ。
全ては自分が測っていたせいだったのだ。
これからは自分のことも、誰のことも測らない。
そういう人生のほうが、楽しいじゃないの。