ずいぶん前に、親が熱帯魚を飼っていたことがあった。
「ネオンテトラ」という名前の小さな魚は、青白い体を光に反射させて、
ぐるぐると水草の中を泳いでいた。
その時の自分はその巨大すぎる水槽に、贅沢にも設置されたフィルターと
美しい流木と、手に入れるのが難しいらしい高価な水草を眺めていた。
苔の駆除要員として加えられたタニシたちが、懸命に壁を登っていたり、
小さいエビの仲間らしい生き物が、せわしなく水の中を行ったり来たりしている。
次第に、親が飼育に飽きて、
みるみるうちに水が濁り、苔が放置されて、
ネオンテトラがどんどん死んでも、やがて水槽が粗大ゴミになっても、
私は、水を眺めることをやめなかった。
水槽がないのなら、プールに泳ぎに行こうかな。
それとも、近くの淀川でも見にいけばいいか。
ああ、別にむしろ、グラスに注がれるワインとか、
雨漏りを受け取るバケツに落ちるしずくとかでもいいや。
液体が引き起こす、波の「ゆらゆら」が心を安らげてくれるような気がするからさ。
水中に身を投げ出して、ふと水面を見上げたときに顔に刺す陽の光が、
カーテンみたいにフワフワしながら漂っている
そんな残像がいつまでも残っている。
*
それはもう夜も更けた街の中で
回送電車が横切った。誰も乗っていない暗い車内が不思議だった。
湿気た空気に包まれた熱帯夜
空っぽの道路を突き抜けて、通天閣の真下をくぐり抜けて
昼間に焼けたコンクリートの余熱を感じる。
闇に沈んだ街
沈黙だけが漂う河原
誰もいない道頓堀で、大量の巨大看板だけが場違いなくらい輝いている。
そういうものを、私はその眼で捉える。捉えて、脳裏に焼きつけて、
それは記憶になる。
写真のような残像が、感情が溢れた時に戻ってくる。
*
濁った川に映る赤や青の光が
波に溶けてゆらゆら揺れている
まるでネオンテトラが生まれ変わって、そのまま水面を全部呑み込んじゃって、色づいたような、
そういう感じがする。
「ああ、なんて綺麗なんだろう」ーーみたいな感情はちっとも浮かばないんだけど、
ただ、なんとなく安らぐ。ただ、ぼんやりその優しく不規則な振動に魅入っている。
思考は鈍くなり、眠くなり、微睡んでいて、
明るいのかも暗いのかもわからずに、ただ白昼夢に陥ったかのよう。
*
悲しい感情、嬉しい感情、
そういうものってネオンみたいだ。
色んな色に、不規則に変わる、水に映る光みたい。
人は生きた後に死んでしまうけれど、
生きているほうは、お別れに涙を流すけれど、
悲しいが溢れて、忘れていたことをたくさん想い出すけれど。
涙も、心もこんなにゆらゆらするんだなって、いつしか、わかるようになってきた。
それらは、見ていて、すごく綺麗だな。
なんて思う。