「1日は24時間です。」
そう習うが、本当に、陽が昇ってから沈むまでの時間は、均等で毎日同じなのだろうか。
ブーケンビリアが白い壁伝いに咲き乱れ、潮風が吹くラバトの街。
ヒジャブを纏う女性たち。
日向ぼっこをする猫や、隅に座り込んで物乞いをする老人。
夕刻の鋭い太陽光。
滑らかなアラビア語の音。
私が生きている世界は、本当に広いなあ。
どこまでも続く本棚に詰められた、大量の書籍のように、一生ではとても知り尽くすことができない。
去年も、一昨年も、違う場所にいた。
好きに世界を歩きたくて、無茶をして、でもそれが心地よかったから。
一年前の、コスタリカの海を憶えているかというと、
その光景は写真頼りで、
むしろ日に焼けた痛みとか、
砂が足の指に吸い付く感覚とか、
ゴーグルが流されてしまうくらいの大波に飲まれた時の激しい引力などを思い出す。
結局記憶なんて曖昧で、過去はそうやって整理されないまま積み上げられていく。
1日は24時間であるという世界の基準によって、私たちは1年ずつ歳をとっていく。
後にも先にも、前に戻るということは絶対にできない。
私たちは常に「今」が一番近しく、一番融通が聞く。
けれど「今」の存在が当たり前すぎて、そして過ぎ去るのが早すぎて、
私たちは「忙しい」と叫んでいる。
私たちは、なんのために「忙しい」?
忙しい時は気づかない。いのちの時間はとっても大切でかけがえがないこと。
眠りから醒めたように、そういうことを問うて、考え始めた。
だから、1秒が、1分が、1時間が、奇跡。
するりと流れていって、知らない間に消えてしまいそうな刹那。
悲しみや妬みや怒り見たいなネガティブな感情で、その刹那を溶かしちゃっていいのかね?
そんなものより、面白いとか楽しいで、その時間を染め切ってしまいたい。
思い立ったら、声が出るうちに、電話をしようと思う。
思い立ったら、歩けるうちに、その道を歩こうと思う。
思い立ったら、脳が忘れぬうちに、尋ねようと思う。
答えはない、ただの呟き。
でも巡り巡る世界の全ての中で、チマッと存在する自分が、
思い立ったので書き残した、いのちの時間。
忘備録というやつなのかも。
#今週のお題
『海獣の子供』
読みたい本(漫画)。
アニメの絵画が美しすぎて、引き込まれる。海の宇宙に吸い込まれて、惚れ込む。
「いのちの時間」について考えさせられたきっかけは、全く別だけど、この物語を思い出さずにはいられなかった。
気になる方は↓
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