Smeh liya Morocco - スマヒリヤ・モロッコ

モロッコ駐在生活のことを中心に、色んなことを書いてます。

懸命より賢明

私の周りのスーパーアクティブ・アウトドア派な人々が、驚きのスピードで友達を作り、旅を企画して、全力で遊びながら課題の質も怠らない様子を見て、自身も何かしら影響を受けている気がする。

少しずつ、変化している実感がある。

知らない人に急に話しかける臆病さがちょっとマシになった。
ごく自然に人の円に混ざれるようになった。
たくさん質問が頭に浮かんで、それを声に出すことが楽しくなってきた。

それでも私はこのコミュニティの中では「おとなしい」「アクティブでない」「控えめな」人物らしくて、
まあ、それはそれでいいか。と自分のポジションに腰を落ち着け始めところである。

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文字通り世界中

日本で学生していた時は、留学生が数人いるだけで「おお、世界」なんて思っていたし、
大阪難波の道を歩きながら中国語や韓国語が飛び交っているのを聞いて海外を感じたりしてた。

「世界ってなんだかすごくステキで、知らないものに溢れてんだろうなあ。」

そんな単純明快なワクワク精神で、海外旅行したりボランティア活動をかじったりした大学時代の私は、世界のいいところをピックアップして楽しむ傍観者だったと思う。

カメルーンにいって自分が「外国人」として生きることを味わってから、「世界」に対して良くも悪くももっと複雑な気持ちを抱くようになった。

学べば学ぶほど出てくる黒い歴史や残酷な戦争の犠牲。植民地時代以降根絶されてきた先住民の文化。対して新しく生まれ始めた世界のあり方や哲学や宗教など。その「多様性」を語り始めればキリがないほどに、それは個人の手に負えないものである。

そんな複雑な世界のあらゆる場所から集まった100人以上の学生が一緒に教室に座って「はい、これについてどう思う?」とテーマを掲げられて、同じ答えが出てくるわけがない。もっと言えば質問の受け取り方からさまざまに飛び交う意見の解釈の仕方でさえもきっと違うのだ。そんな中でPEACE(平和)を維持しようとする国際機関と人々は、やっぱりすごいんじゃないか。

サムライ精神を捨てる

命を懸けるサムライ精神は、きっと日本人のハートにしっかり植っている。

一つ何かを始めたら途中で諦めずにやり切ること。
自分に甘えずに限界を越えようとすること。
他者を批判せず自分の心を戒めて我慢すること。

そういうのが、日本の美学である。

しかしだな、最近気づいたのだ。毎日求められるリーディングと批評文と、定期的に提出しなければならないグループワークの課題やらをこなす中で、全てを丁寧に理解して完璧にこなすことは不可能だと。特に私のような不器用人間には到底時間が足りない。

そこで私は周りを見た。するとどうだろうか。サムライ精神なんてどこへやら。皆めちゃくちゃ合理的に、「賢く」勉強をこなして、週末は頭を切り替えて思いっきり遊んでいるではないか。毎日しっかり眠り、しっかり食べること。そしてしっかり遊ぶこと。いつも元気いっぱいでポジティブな友達たちは、「どうやって毎日過ごしてるんだろう?」と観察してみることにした。

観察結果1:そもそも地頭がいい。
とあるキルギス人の学生は、そもそも読む速度が早い。18ページの論文を30分で全て理解して自分の意見を言えてしまう。また課題に関しては単位に響くものを優先し、超合理的に計画を立ててコツコツと終わらせる。
彼女の場合は週末の旅行も「こなす」課題としてリスト化されており、毎週ほぼ遠方への旅行をする。
もちろん旅行はめっちゃ楽しむし、その間は学校の勉強のことは全く考えないようにしているようだ。
つまり地頭がいいので平日の時間内に全ての課題をこなすことができるのである。

観察結果2:他の学生を頼る

とあるギニア人の学生は、勉強と遊びどちらを優先してるかというと、遊びである。提出課題の期限ギリギリに全てをこなし、授業中はたくさん質問をして疑問を残らないようにしている印象。
しかし読書課題に時間が取れないときは、地頭のいい友達に要約を求め、さらりと課題をスキップする。しかし洞察力があるので授業では動じずに発言するし、それらはとっても興味深い。
大学院の授業で鍵となるのはクリティカル・シンキングなので、「問い」を投げることが学生の仕事。なので、先生は学生が質問することを喜ぶ。学んでいる内容的に正解のない物ばかりなので、疑問はなんでも投げかけてOKみたいな雰囲気の授業が多い。彼女に習ってわからないことは人に聞き遠慮なく頼ってみたり、疑問が浮かべばすぐに挙手して質問してみた。
すると授業に「参加している感覚」を得られたし、モヤモヤをその場で解決できるのでとても良い。今後も引き続きやってみようと思う。

観察結果3:諦めも肝心

とあるマレーシア人の学生は申し分なく優秀で素晴らしい洞察力を持っているけれど、自分の立ち上げた団体やらモデルの仕事やらで忙しくして授業は後回しの様子。リモート作業に慣れている彼女は、「キャンパスに行く必要ないよね」と言って全てオンラインでこなす。コロナ禍だからできる技であるが、時代にあったスタイルだなと思う。
また、コスタリカにいるだけでも外国なのだけど、メキシコに飛んだり、コロンビアに行く計画を立てたりする。彼女にとって、国連平和大学の修士プログラムはあまり優先順位が高くないらしい。単位を取ることを目的として余分な勉強時間は一切取らない彼女からは、その合理的な計画性を学ぶことができた。
なるほど、切り捨てることも肝心なのである。

さらば「サムライ」。時代は「プラ・ビダ」

平日ど真ん中に、大学から車で2時間かかるビーチに弾丸で日帰り旅行したり、
ハロウィンに全力かけてメイクと衣装を考えて、友達と激写しまくりパーティーしたり、
インドの伝統的なディーワーリーという祝祭をお祝いして踊りまくったり、
たまたま帰りしなにバーで飲んでいる友達に会って夜な夜な語り合ったり・・・

そういう時間が優しくすぎていく。

勉強は怠らない。
しかし勉強ばかりし過ぎずに毎日を大切にすること。人との時間を楽しめる心を持つこと。
そのために健康管理をしっかりすること。(衣食住睡眠)

サムライ精神なんてここじゃあ通用しないのだ。
せこく、賢く、がめつく。
完璧を求めすぎず、肩の力を抜いて「まあいいや」という気持ちで過ごす。

今しかできないことを思い切り楽しむ。
今にも飛べそうな軽い気持ちで、常に答えのない「問い」を投げかけながらも、
純粋で透明なこの日々を、Pura Vida(Pure Life)を、賢明に生きてこうではないですか。


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